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その日の想いを徒然なるままに。
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今まで書いていたような気がして、書いてなかった家族構成。
うちんとこは「デフ・ファミリー」といって、家族全員(父・母・兄・私)
耳が聞こえないという障がいを持っています。
だから、家族内でのコミュニケーションは必然的に手話となるわけです。

今まで引越しが多かったので、
父の職業は自衛隊?と聞かれることが多いんですが、牧師なんです。

* * * * * * * * * *
12月に帰省した時に、父の病名について詳しく話を聞いたところ、
6月の時点ではただの「胃がん」だったらしいんですが。
どうも3月くらいから胃あたりに異変を感じていたらしくて、
何度か病院で見てもらっても、「胃潰瘍」としか診断されなかったそうです。

それが5月の終わり頃に、胃に腫瘍が見つかって初めて「胃がん」と診断され、
6月に手術するということに至ったんですが。
その後の検査で「スキルス胃がん」だと言うことが解り、
抗がん剤を投与しての治療が始まったんですが、
父本人がこの治療をずい分嫌がっていたみたいで。
(父は大の病院嫌い…。そして、コレはうちにも遺伝しているみたい…)

8月、10月、11月に入退院を繰り返しつつ、色んな所に出張。
何でそんな体力があるの!?と、周りの人は驚いていたみたいですが。
父の体調を考えて、3階のアパートでは階段の上り下りが大変だろうってことで、
12月始めくらいに、実家を一階に部屋があるアパートに急遽引越し。

…でも、父はその家に帰ることは叶いませんでした。

最期まで「これが欲しい。」とかそういった要望を一切言わず、
「何かして欲しい?」と聞いてみても。
父の要望はたったひとつだけでした。

「家に帰りたい。」 と。

最期まで家族が一緒に居ることを望み、そして何よりも一番。
母が傍に居てくれることを望みました。

「明日か明後日までの命かもしれないけど、死ぬことを怖いとは思わない。」

「もし、○○(兄)や奏がもっと小さかったら、
もっと生きたいと願ったかもしれないけれど、
もう二人とも充分に大人になった。
だから、思い残すことはない。」

「こうやって、家族に恵まれて充分幸せな人生だったと思う。」

最期まで、自分の病気のことよりも仕事のこと、母の今後のことを考えながら。
母はパソコンが使えないから、教えてやって。とか、
長い休みの時は母の為に実家に帰ってやるんだよ。とか、
借金だけはするな。とか、
ほんとに、自分の事よりも、周りのことばかり気にかけてて。

父って、こんな人だったんだ。と、
生まれて初めて父のことを尊敬したんです。

そして、この父のもとに生まれてきて良かったと、
生まれて初めて、そう思いました。

* * * * * * * * * *

1 やすかれ、わがこころよ
  主イエスはともにいます
  いたみも苦しみをも
  おおしく忍び耐えよ
  主イエスのともにませば
  たたえぬ悩みはなし

2 やすかれ、わがこころよ
  なみかぜ猛るときも
  父なるあまつかみの
  みむねにゆだねまつれ
  み手もてみちびきたもう
  望みの岸はちかし

3 やすかれ、わがこころよ
  月日のうつろいなき
  み国はやがてきたらん
  うれいは永久に消えて
  かがやくみ顔あおぐ
  いのちのさちをぞ受けん

賛美歌『やすかれ、わがこころよ』

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うちよりも母の状態がとても気がかりな奏です、今晩は。

この世に生を受けて26年だけど、実際に父と共に過ごしたのは18年間くらい…。
その2倍くらい、母は父と一緒の時間を過ごしてきたわけですから。
去年結婚して30年目を迎えて、何処かへ旅行しようと計画していたみたいです。

去年父が60歳という還暦を迎えて、何かプレゼントしたいなと思ってて。
なんだったら、結婚30周年記念にどこか旅行するんなら、
旅行券をプレゼントするよって、そう言ったことを覚えています。

「アンタにそんなお金あるの?」と、笑い飛ばされましたが。

父の誕生日は8月なんですが、その頃は抗がん剤との闘いの日々だったそうです。
母からはただ、「今入院している。」とメールがあるだけで、
父がどんな状態にあるのかも、全くといっていいほど知らなかったのです。

6月の手術後に入退院を繰り返しているということは、
『手術後の経過があんまり良くなかったんだな…。』
といった漠然とした不安があるだけで、
『そのうち、きっと良くなる。』といった楽観的な考えがあったんです。

それが、12月の帰省で「余命2ヶ月。」と言われた時は、
言葉で言い表せないくらいの衝撃を受けました。
病院で1年振りに見る父は、1月と比べたらずい分やせ細っていたし、
もう食事も出来ない状態、立ち歩けない状態でした。

『何で…。』と、言いたい気持ちを必死に堪える私の心を察したのか、
父がこう言ったのです。

「奏に余計な心配をかけたくなかったから、
詳しいことは話さなくていいと、母に頼んだんだよ。」

「奏の気持ちはよく解る。自分の娘だから。」

…と。
そう手話で語る父の姿は、『本当に末期患者?』と思えるくらいでした。

それは、最期の時まで。
意識を保ち続けたのです。

* * * * * * * * * *

1 いつくしみ深き 友なるイエスは
  罪とがうれいを とり去りたもう
  こころの嘆きを 包まず述べて
  などかは下さぬ 負える重荷を

2 いつくしみ深き 友なるイエスは
  われらの弱きを 知りてあわれむ
  悩み悲しみに 沈めるときも
  祈りにこたえて 慰めたまわん

3 いつくしみ深き 友なるイエスは
  変わらぬ愛もて 導きたもう
  世の友われらを 棄て去るときも
  祈りにこたえて 労りたまわん

賛美歌『いつくしみ深き』

昨日久し振りにPCを開いて、メールチェックしていたら…。
300通くらいの新着メールが来ていて、軽くビビる(((°д°;)))
その中で、本当に必要なメールは僅か10通くらいだったんだけど…(汗)
スパムメールを何とかしたいと思うこの頃。

* * * * * * * * * *

思い起こせば、父の元気な姿を最後に見たのは、去年の1月。
なんとなく北海道のおばぁさんの顔が見たくなって。
北海道に行こうと提案した所、両親も凄く喜びながら賛成してくれて。
本当に久し振りの家族旅行でした。

ここでの一番の思い出は、旭山動物園。
アザラシが丸い筒の中を上がったり下がったりする所、
そしてペンギンの散歩タイムでは、父が張り切って撮影していました。
ベストショットが撮れたりすると、誇らしげな顔で見せてくれます。
「これ、いいじゃん。」と言うと、それはもう嬉しそうな顔で。

今思うと。
小さい時から家族旅行が多かったんですが、その度に。
父が撮影に張り切っていたように思うのです。
思い出を残しておくのが好きな人だったんでしょうか。
現像した写真を眺めながら、思い出を語り合えるのが楽しいからでしょうか。

札幌の『T38(タワー・スリーエイト)』に行った時には、
母とのツーショットをせがまれ、しぶしぶ撮影(笑)
父は本当に母を愛しているんだなぁ…と感じたひと時でした。

これが、最後に見た父の元気な姿でした。

あれからたった1年。
長い人生から振り返ると、1年という歳月は短く見えるものだけれど、
1年という長い時間をかけて、病魔が父の身体を蝕んでいったのかと思うと。

どんなに他愛ないことでも。
どんなに平凡な毎日の繰り返しであっても。
1日1日という時間を大切にしながら過ごしていかなければなと、
父の姿を見ながら、そう思ったのです。

* * * * * * * * * *

1 血しおしたたる 主のみかしら、
  とげにさされし 主のみかしら、
  なやみとはじに やつれし主を、
  われはかしこみ きみとあおぐ。

2 主のくるしみは わがためなり、
  われは死ぬべき つみびとなり、
  かかるわが身に かわりましし
  主のみこころは いとかしこし。

3 なつかしき主よ はかり知れぬ
  十字架の愛に いかに応えん
  この身とたまを としこえまで
  わが主のものと なさせたまえ。

4 主よ主のもとに かえる日まで、
  十字架のかげに 立たせたまえ。
  み顔をあおぎ み手によらば、
  いまわのいきも 安けくあらん。

賛美歌『血しおしたたる』


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