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年末年始に帰省した後に、編集していた画像。
『いつか来る現実』を乗り越えられるようにと、
そんな想いを込めての画像です。
思ったより早くその現実が訪れてしまったんですが。
この画像を見るたびに、頑張らなきゃなと思うのです。
父が危篤状態だった時の病院側の対応、そしてその時秋田に滞在していた
熊本からの親戚の対応に、少し頭にくるような出来事があったんですが。
それはまぁ、いつかの機会に。
兄も前日東京に戻ったばかりなのに、慌てて帰省。
お疲れ様です…。
さんざん泣きはらした後は、葬儀の準備で泣く暇もなかったんですが。
父の宗教が仏教ではなく、キリスト教だとはいえ、
キリスト教も大きく分けると、
カトリック派・プロテスタント派 に分かれるので、
それを葬儀会場の人に伝えるのに時間がかかってしまいました。
どうも、キリスト教=カトリック というのが、通常みたいです。
カトリックとプロテスタントの違いを説明したり、進行などは、
父の職業関係者の人に全てやってもらったんですけど。
親戚たちの目には、父の葬儀はあまりにもシンプル過ぎる、
と映ったみたいですが。
(実際色々聞かれたりしましたし…。)
それでも、全国各地から父の職業関係者が集まってきてくれて。
心の底から嬉しく思ったんです。
父は人が多く集まるのが好きな人でしたし、寂しがり屋でもあったから。
葬儀の間は、何故か涙は出ませんでした。
賛美歌が、不思議と心を落ち着かせてくれたんじゃないかと。
親戚の人が号泣し過ぎて、逆にこっちが泣けるような気分じゃなかった、
っていうのもあるような気がしないでもない…(変な日本語!)
父との別れは当然辛く悲しいものだけれど、
今まで築いてきた、数え切れない程の想い出たちが。
自分にとって嫌だった想い出も。
今では全てが素敵な想い出に映るのですから。
これから先、ふと父の事を思い出した時に。
切なく胸を締め付ける時があるかもしれないけれど、
涙を拭って、前に向かって歩き出します。
いつか、父のことを語る日が来た時は。
その時は、きっと笑顔で語れることでしょう。
最後に。
友人たちへ。
そして、このサイトを通して、ネットを通して知り合った方々へ。
色々心配していただき、本当にありがとうございました。
心から深く、感謝申し上げます。
* * * * * * * * * *
1 とうときわが主よ おもいは尽きぬ
かなしきわかれも みむねと仰がん。
2 なやみにあえども 主ともにませば、
むなしくなげかず みむねと仰がん。
3 めぐみをおもいて なみだをはらい、
みくにをのぞみて みむねと仰がん。
4 わが主にたまわり わが主に召さる、
すべてをゆだねて みむねと仰がん。
賛美歌『とうとき わが主よ』
明日は何が起こるかわからない。
そして、思わぬ困難をどうやって乗り越えてゆくか。
そうやって、人間は成長してゆくのでしょう。
12日にまた帰省したのは、前日に父の容態が急変したから、
「今すぐにでも帰ってきて欲しい。」との、母からのメールがあったからで。
慌てて荷造りして、飛行機のチケットを取って…。
秋田に着いてすぐに病院に駆けつけたら、いつもどおりの我が父。
「やぁ、やぁ♪」と笑顔でお迎え。
…何か肩透かしをくらった気分でしたが、
父がまだ生きているということにホッとしたんです。
兄も心配になって東京から駆けつけてきたんですが、
父が「大丈夫、大丈夫、」としきりに何回も言うので、
15日にまた東京に帰っていきました。
うちは母のことをサポートしたいなと思ってたので、
一応上司に許可をもらって、一週間の休みを貰ってました。
15日の夜病院から帰って、掃除して…。
ネットで「スキルス胃がん」についてめっちゃ調べまくってました。
こんなに何かを真剣に調べるのって、大学以来なんじゃないかな…。
「スキルス胃がん」はⅠ~Ⅳ期に分けられ、
父はその頃Ⅳ期に入っていたんですが、
Ⅳ期といっても、父の状態からしてまだ大丈夫だと思えたのです。
安心して、そのまま眠りに着いたんです。
4時に母が帰ってきて、起こされて。
その時に父が息を引き取ったことを初めて知らされました。
(2時きっかりにメールが来ていたんですが、気付かなかった…。涙)
母が病院から持ってきた父の服とかを見ながら。
何があったのかと、理解するのに時間がかかりました。
『昨日、あんなに笑顔で、大丈夫だよ。って言ってたじゃない…』
それだけが、頭の中をぐるぐると廻ってました。
『余命は2ヶ月…まだ1ヶ月もあるじゃない。』
父の姿を見ながら、涙が流れ落ち、止まりませんでした。
本当に安らかな顔でした。
いつもの父の寝顔でした。
後に母はこう話していました。
「息を引き取る間際に、父は何かを見ていた。」 と。
一体何を見たのでしょう?
それを聞きたくても、知りたくても。
父は手が届かぬ人となってしまったのです。
* * * * * * * * * *
1 救いぬしイエスと ともにゆく身は
とぼしきことなく おそれもあらじ
イエスは安きもて こころたらわせ
ものごとすべてを よきになしたもう
ものごとすべてを よきになしたもう
2 さかみちにつよき み手をさしのべ
こころみのときは めぐみをたもう
よわきわがたまの かわくおりしも
目のまえのいわは 裂けてみずわく
目のまえのいわは 裂けてみずわく
3 いかにみちみてる めぐみなるかや
やくそくしませる いえにかえらば
わがたまは歌わん ちからのかぎり
きみにまもられて 今日まできぬと
きみにまもられて 今日まできぬと
聖歌『すくいぬしイエスと』
今まで書いていたような気がして、書いてなかった家族構成。
うちんとこは「デフ・ファミリー」といって、家族全員(父・母・兄・私)
耳が聞こえないという障がいを持っています。
だから、家族内でのコミュニケーションは必然的に手話となるわけです。
今まで引越しが多かったので、
父の職業は自衛隊?と聞かれることが多いんですが、牧師なんです。
* * * * * * * * * *
12月に帰省した時に、父の病名について詳しく話を聞いたところ、
6月の時点ではただの「胃がん」だったらしいんですが。
どうも3月くらいから胃あたりに異変を感じていたらしくて、
何度か病院で見てもらっても、「胃潰瘍」としか診断されなかったそうです。
それが5月の終わり頃に、胃に腫瘍が見つかって初めて「胃がん」と診断され、
6月に手術するということに至ったんですが。
その後の検査で「スキルス胃がん」だと言うことが解り、
抗がん剤を投与しての治療が始まったんですが、
父本人がこの治療をずい分嫌がっていたみたいで。
(父は大の病院嫌い…。そして、コレはうちにも遺伝しているみたい…)
8月、10月、11月に入退院を繰り返しつつ、色んな所に出張。
何でそんな体力があるの!?と、周りの人は驚いていたみたいですが。
父の体調を考えて、3階のアパートでは階段の上り下りが大変だろうってことで、
12月始めくらいに、実家を一階に部屋があるアパートに急遽引越し。
…でも、父はその家に帰ることは叶いませんでした。
最期まで「これが欲しい。」とかそういった要望を一切言わず、
「何かして欲しい?」と聞いてみても。
父の要望はたったひとつだけでした。
「家に帰りたい。」 と。
最期まで家族が一緒に居ることを望み、そして何よりも一番。
母が傍に居てくれることを望みました。
「明日か明後日までの命かもしれないけど、死ぬことを怖いとは思わない。」
「もし、○○(兄)や奏がもっと小さかったら、
もっと生きたいと願ったかもしれないけれど、
もう二人とも充分に大人になった。
だから、思い残すことはない。」
「こうやって、家族に恵まれて充分幸せな人生だったと思う。」
最期まで、自分の病気のことよりも仕事のこと、母の今後のことを考えながら。
母はパソコンが使えないから、教えてやって。とか、
長い休みの時は母の為に実家に帰ってやるんだよ。とか、
借金だけはするな。とか、
ほんとに、自分の事よりも、周りのことばかり気にかけてて。
父って、こんな人だったんだ。と、
生まれて初めて父のことを尊敬したんです。
そして、この父のもとに生まれてきて良かったと、
生まれて初めて、そう思いました。
* * * * * * * * * *
1 やすかれ、わがこころよ
主イエスはともにいます
いたみも苦しみをも
おおしく忍び耐えよ
主イエスのともにませば
たたえぬ悩みはなし
2 やすかれ、わがこころよ
なみかぜ猛るときも
父なるあまつかみの
みむねにゆだねまつれ
み手もてみちびきたもう
望みの岸はちかし
3 やすかれ、わがこころよ
月日のうつろいなき
み国はやがてきたらん
うれいは永久に消えて
かがやくみ顔あおぐ
いのちのさちをぞ受けん
賛美歌『やすかれ、わがこころよ』